ミスをした夜は

仕事でミスをした。入社以来で最もひどいミスと言っていいだろう大きなミス。しかも顧客に指摘されるまで自分自身ではまったく気づかず。1つのプロジェクトの足元、土台みたいなところでのミスは、一言でいえば致命傷ってやつで。根元が腐ってしまったら、枝葉末節いくらがんばって日光を浴びても、水分を吸収しようとしても、努力はすべて水の泡。

この1か月近く、ずっとこの仕事ばかりやってきたというのに。このザマで。僕がやったことはといえば、根元が腐っているのにも気づかずにひたすらに光合成を気取ってただけ。漫然と、忙しいとか、つらいとか、眠いとか、疲れたとか言いながら、愚痴や他人への攻撃でなんとか自分自身を正当化してやってきた1か月間。この1か月はなんだったんだろう。

そしてミス発覚からの数時間は、ミスの確認作業、上司からの叱責、周囲からの冷たい視線、顧客への謝罪。一連の動作のあいだ、泣いて逃げることができたらどんなに楽だったろう。いやー、久しぶりだね。死んだらどんなにかラクだろうって思ったのは。地下鉄のホームドアがなかったら、あるいは・・・なんて言ったら大げさかもしれないけれど。浦和美園行きの電車がホームに滑り込んでくるときに、ホームドアがなかったら、こうしてエビアンを飲みながらキーボードを打っている自分はいなかったかもしれないだなんてちょっと大げさかもしれないけれど。

こんな最悪な気分のときに、ぶっとい一本グソが出たりすると、ほんと思うよ。なんだかなあって。こっちは最悪にブルーだってのに、肉体は健康そのもの。こっちは自分のミスのせいで会社でちぢこまっているというのに、ハリ・つやを備えた立派なウンコのどっしりとしたたたずまいに思う。ほんと、なんだかなあって。


今日の一曲
スピッツ / ベビーフェイス

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# by maseda1001 | 2017-02-01 00:29 | Comments(0)

unko

うんこをなめてはいけない。

みんなわかっているようで、わかっていない。誰に教わるともなく自然とうんこはするくせに、うんこのことをなめてるやつが多すぎる。だからあえて2回同じことを言おう。

うんこはなめてはいけない。

この言葉には2つの意味があることを賢明な諸氏ならばおわかりいただけると思う。すなわち、「うんこをなめる」という「うんこ(名詞)+を(接続助詞)+なめる(動詞)」という言葉には、①うんこを舌でtouchすること、②うんこを軽んじること。この2つの意味を包含している。私がここで述べたいのは、後者。すなわち、②うんこを軽んじることについてだ。

巷にはうんこをなめてるやつが多すぎる。会話の最中に「うんこ」という単語が出ただけで、苦り切った渋面をつくるすましたOL。うんこを切り口にして軽妙なトークをするお笑い芸人は、うんこをダシにしてユーモアある自分を演出する。かりんとう屋さんもカレー屋さんも、うんこをオマージュにした食べ物で生計を立てているくせに、うんこに対する感謝をするどころか、うんこを禁忌とした挙句、店の前で「うんこ」の「う」の字を口に出しただけで、警戒しだす始末。

うんこをなめてる奴が多すぎる。うんこってのは、もっと感謝されなければならない。そして崇められなければならない。

うんこはそもそもヒトが摂取した食物の残りカスだ。口から、食道、胃、小腸、大腸、そして肛門。その旅路は決して、平たんではない。そして短くない時間だ。胃液で溶かされ、小腸・大腸で栄養素を根こそぎ吸い取られ、そして肛門から排出される。口にしたときは、オマールエビでも、ケツから出るときは全部うんこ。キャビアを食べても、トリュフを食べても、おせんべを食べても、カロリーメイトを食べても同じ。結局はうんこ。最後はうんこなんだ。

それはある種の神秘性をも私たちに感じさせてくれる。

食べ物が、我々の体内を通過することによって、うんこになって出てくる。考えてみれば不思議だ。我々の体内で何が起こっているのか、さっき食べたコンビニ弁当が胃の中でどんな状態になっているのか、直接目で見ることはできない。しかし、私は経験的、直感的にわかる。確かにコンビニ弁当の焼き鮭も、ひじきも、梅干しが体内にあることを。そして、数時間後にはそれがうんことして完成されて、再び世に出てくることを。誰に指示されたわけでもない。誰かに教えられたわけでもない。それでも、我々はうんこをするのだ。これは神の意志、God's WILLと言わずして、なんと呼べるだろうか。

それなのに。それなのに、である。

うんこをなめてる奴が多すぎる。先生、だいぶ興奮してきたら何度でもいうけど、多すぎるのよ。うんこをなめてるやつが。軽すぎ。うんこに対する扱いが軽すぎ。ミスチルは崇めるくせに、うんこはレバー大をひねって流しておしまい。ミスチルが不倫した挙句にグラドルと再婚というラブソングが尻尾巻いて逃げ出すような過去があったことを知ったうえで、それでも『ロード・アイミスユー』とか聴けるくせに、うんこのことなんてアウトオブ眼中。そんな奴が多すぎる。

だから言いたい。私は声を大にして言いたい。

うんこのことはもっと真剣に考えなければいけない、と。うんこに対して真摯に向き合い、うんこと語らわなければならない、と。夜更けのバーで親友と語らう話題として選ぶべきは、うんこ。日曜のさわやかな朝のミサでの神父の説教のテーマも、うんこ。夜景の見えるレストランで指輪をプレゼントして、うれし涙を見せてくれる彼女に対して語り掛ける言葉も、うんこ。

今日、僕はうんこのことをずっと考えていた。朝、いつものとおり、寝起きにトイレにブースインした。定例行事。いつものことだ。ものの5分もすれば、うんこが解き放たれるはず。だった。だったのだが、出なかった。うんこがさっぱりでなかったのだ。前日上司に鬼のように説教されようとも、前日に適齢期の女子の既読スルーを食らおうとも、なにがあろうとも毎朝快便、朝のお通じと美肌だけには自信があったこの僕が。うんこが出なかったのだ。

これは一大事である。イギリスがEU離脱しても、トランプが大統領になろうとも、何が起こっても朝のお通じは保ってきたのだ。言うなれば、ルーティン。そのルーティンが、今日止まってしまった。

以降、僕はうんこのことを考えて一日を過ごすこととなった。お昼に野菜タンメンを食べてるときも、誤って保存しないままにエクセルを閉じてしまったときも、寒さに震えながら家路を急ぐときも。うんこのことを考えて過ごしてきた。

そしてさっき、ついにうんこが出た。

マンモスうれぴー。



今日の一曲
スピッツ / 日なたの窓にあこがれて

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# by maseda1001 | 2017-01-24 23:10 | Comments(0)

デイドリーマー

仕事が終わらなかったため、昨年から予定されていた飲み会に参加できず。

僕は飲み会のために生きているわけではない。されど、仕事のために生きているわけでもない。月に1回くらいは飲み会に参加させてくれたってよさそうなものだけれど、それすらも許してくれないハードワークさ加減。ビートルズもハードデイズナイトを歌っていた頃はこんな気持ちだったのかもしれない。ただ、彼らに救いがあるとすれば、彼らは表現するすべを知っていた。自分たちの置かれている苦境をキャッチーなメロディーに乗せて歌にすることができた。ユーモアのなかに憂いを含ませて自分たちの置かれている状況を歌うことができた。それがどれほどの救いになるかは赤の他人の僕が知る由もないけれど、少なくともおカネにはなったんだし、羨む人も多いだろう。

一方、僕のストレス発散方法といえば「中間管理録トネガワ」を読んで、中間管理職の苦労に思いを馳せることくらいなもの。

今日は疲れた。昼間の出来事が夢のなかでの話だったかのように、いまでは現実感がなくなってきています。疲れた。

今日の一曲
エレファントカシマシ/悲しみの果て

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# by maseda1001 | 2017-01-18 01:31 | Comments(0)

ランニング・マン

正月番組でテレビ東京のバス旅で、福島県のとある温泉に太川さんとえびすさんが入浴するシーンで、えびすさんが「温泉って入る前はめんどうくさくてイヤだなと思うけど、入ると気持ちいいね。」というたぐいのことを言っていた。自分に当てはめて考えてみても、たしかに温泉は入る前はめんどうくさいと思うことがある。就寝前でもないのにいちいち服を脱ぐのは面倒だし、他人の視線があるなかで全裸になって乳輪の毛がボーボーになってるのを気にするも面倒だし、自宅に帰れば風呂があるにもかかわらず風呂代でカネを払うのもなんだか損してる気がしないでもない。入浴前はそんなことを考える。でもその面倒を超えた先、実際に風呂にカラダが浸かってしまえば、そういう憂いは露のように霧散して、思うのだ。「ああ、気持ちいいなぁ」と。

似たようなものはいくつかあって、たとえば食事も入浴と似ている。真冬の雨の日なんかは外食しようと出かけるのはとても気力が必要で、だいぶ面倒なことだけど、いざ飲食店に入ってしまえば、次の瞬間には空腹を思い出し、「あれ食べたい、これ食べたい」と目先の食事のことばかり考えるようになる。あと、学生のときの試験勉強なんかも入浴や食事と似たようなもので、机に座るまではゲームやらマンガやらいろんな誘惑が目につくけれど、覚悟を決めて机に座り参考書を開くと勉強に没頭することになることが多かった(ただし、好きな科目に限る)。

やり始める前は面倒なことでもやり始めるといつの間にか熱中している。

これは冬のランニング、マラソンにも当てはまる気がする。寒風吹きすさぶ真冬は、コートを着込んでいても外に出るのは億劫なものだ。ましてやランニング用の軽装で外に出るということは、相応の覚悟を要する。それこそ、真冬の朝にキンキンに冷えた便座に着座するときと同じくらい、あるいはそれ以上の覚悟を要する。だけれども、いったん走り始めると世界は一変する。ランニングしているうちにカラダがほどよくあたたまり、あれだけ冷たかった風も心地よくなる。心臓が奏でるハートビートも心地よいリズムでアップテンポを刻む。自分の身体が活動しているを感じることができる。これほどの快感を味わうことができる行為、飲食や入浴に匹敵するのではないだろうか。

最近、ランニングをサボっていた。サボっていたというより、ランニングする目的や意義も忘れて怠惰につかりきっていた。ランニングの効用は十分知っているはずなのに、一歩を踏み出す気力を失っていた。結果、腹回りはダルダル。下半身は弛緩して、ユルユル。最近、妙にこむら返りが多いのもランニングをサボっているからだろう。カラダは僕のメンタルの怠惰を反映して、しっかりと怠惰なボディへと変化していた。

そんなある日の夜、僕の目の前に青から赤へと点滅する信号があった。この信号を一度待つと、ひどく待たされる信号。そいつがチカチカ点滅。真冬に長時間、ただ信号が変わるのを待つだなんて、そいつはきつい。お気に入りのアイドルの熱愛発覚なみにきつい。ならば、と走った。ぼくは走った。ひさしぶりに走った。

思いのほか、カラダは鋭敏に反応してくれた。軽やかに横断歩道をステップを踏み、走る。風は冷たいが、心臓が泡立ち、鼓動が速まるのを感じる。「ああ、そうか。走るって気持ちよかったんだっけな」。そんなことを感じながら横断歩道を渡り終えた。なるほど、僕は忘れていた。ランニングはつらいことばかりではない。たのしみもあったんだ。そんな快感にひたって気づいた。ヒザが痛い。怠惰なボディは、信号を渡るときのダッシュというごく短時間の運動ですら悲鳴を上げていた。

たまの運動はするもんじゃないね。


今日の一曲
なし


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# by maseda1001 | 2017-01-11 21:34 | Comments(0)

とある駆け込み乗車で

電車をおりて改札へと向かう階段を登っていた。マンガ喫茶で5時間ほど自堕落をむさぼった帰りのことだ。自宅の最寄り駅の電車から降りて、プラットホームから改札階へ接続する階段をとぼとぼ上っていた。

そしたら、駆け込み乗車のために2段飛ばしくらいのペースで猛然と階段を駆け下りる若い男3人組。腹をすかせた飼いネコがキャットフードに一目散に駈けるかのように、某駅のプラットホームへの階段を、ドアがいまにも閉まりそうな電車に向かって猛然と駆け下りる若者たち。若さがあふれるエネルギーを生み、そのエネルギーは若者たちを駆け込み乗車するための燃料となった。3人が横一列にならんで階段を一目散に駆け下りる様子は、ジャッキーやブルース・リーが出演するような香港映画くらいでしか目撃できないと思ったが、現代日本でも目撃できるとは。

そして目撃できるだけではなく、駆け込み乗車のために猛然と階段をダッシュでくだる3人を避けきれず、うち1人と接触する。目撃だけでなく襲撃までされてしまうというオマケつき。これには日ごろからメンタル同様、ボディも甘やかしている僕はどうしようもなかった。若者の風をきるようなスピードをよけきれずに接触。なんとか階段の中腹で手すりを利用してその場に踏みとどまる。若者たちはそれに気づいたのか気づいていないのか、あっという間にいなくなってしまった。まるで嵐。嵐が5人組であるという前提を棚に上げて言うならば、嵐のような3人組だった。

階段の中腹程度での接触だったため、僕が90才の老人だったら接触によって階段から転落、死亡という可能性もあった。仮に僕が90才の国民栄誉賞受賞者であったら、僕と接触した若者は、国民栄誉賞受賞者を意図的にではないにしろ殺してしまったというカドで、マスコミや世間から袋叩きにあっていたことだろう。それを考えると、あのとき階段の中腹にいたのが、健康な壮年男性、アナルの裂傷を除けば五体満足の僕でよかったということになる。

そう考えると、僕は今日、ある意味人助けをしたともいえる。未来ある若者を犯罪者におとしめることを食い止めた。そうは言えないだろうか。僕は駆け込み乗車による接触で転倒しなかったことにより、駆け込み乗車をした若者を救った。そうは言えないだろうか。

言えるわけないよね。

駆け込み乗車は危険ですのでおやめください。


今日の一曲
ゆいちゃんず / 渋谷川

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# by maseda1001 | 2017-01-09 22:32 | Comments(0)