電車のアナウンスについて思うこと

地下鉄に乗っていて最近よく思うんですが、車掌がよくしゃべる。とにかくよくしゃべる。

「次は◎◎駅です」や、「はい、ドア閉まります。ドア閉まっております」とかに始まり、「朝ラッシュ混雑により電車遅れて申し訳ございません」とか謝罪をしたり、ときには「本日もお疲れ様でした」とかねぎらいをかけてくるどこぞの貞淑な奥様かと思うようなアナウンスをする車掌までいる。

いろいろな意見があると思うし、あっていいと思うんですが、僕はこのアナウンスがあまり好きではない。好きではないというか、はっきり言って嫌いだ。聞いていてムカムカしてくる。胸がムカムカして張り裂けそうになる。あまりの胸のムカつきっぷりに、僕の胸がEカップくらいになっても不思議ではないくらい、ムカムカする。

なぜ僕は車掌さんのアナウンスが嫌いなのか。

まず第一に、罪のない人に対する説教がいやだ。それも毎日。「駆け込み乗車は危険ですからおやめください」というアナウンスは、駆け込み乗車をしたその人だけに言えばいいことであって、駆け込み乗車をせずに、ちゃんと整列して電車に乗った残りの大多数の人にまで言う必要があるだろうか。

遠足の前日、小学校の先生が「お菓子は100円までです。これはルールです。みんな守りましょう。正直者がバカを見るなんてことがないように。」と言っていたことを思い出します。駆け込み乗車をした人が遠足に200円分のお菓子を買ってきた子供で、残りの大多数は先生の言いつけを守って100円分しかお菓子を買わなかった子供だ。本当は、みんなもっとお菓子を持ってきたかった。「うまい棒のお好み焼き味とかチーズ味とかラムレーズン味とかもっと色んなバラエティを楽しみたかった!」という欲求を我慢した健気な子供たちが大半だ。しかし、たったひとり先生の言いつけを破る子供がいると、先生は激怒する。みんなに向かって激怒する。「100円分しか持ってきちゃだめだって言ったでしょ!」と激怒する。そして楽しいはずの遠足は、たったひとりのルール違反のせいでお通夜みたいになってしまう。

なぜルールを守っている人に、毎日毎日同じことを繰り返し言うのか。それがいやだ。

ただまあ、今日はルールを守っていても、明日はわが身で、駆け込み乗車をする側になっている可能性もゼロではない。抑止力という意味もあるのでまあこれは仕方ないかなと許容できると思います。

ただ、2つ目に、思うのが、毎日毎日車掌が謝りすぎる。これもいやだ。本当にいや。電車が遅れて申し訳ございませんと謝る車掌さん。本心から申し訳なさそうな迫真の演技力を見せる車掌さんもいれば、わりと感情のこもっていない車掌さんもいたりして。でも、なぜ車掌さんが謝らなければならないんだろう。

電車が数分遅れたところで、都心の地下鉄だったら、次の電車はまた数分内に来る。それなのに、今乗っている電車が遅れたから謝るというのはどうだろう。1時間に1本しかない電車が20分、30分遅れてきたら、ムッとなって、なんで遅れたか理由を知りたくもなるかもしれない。でも、都会の地下鉄で、特定の列車が一本遅れたからといって、次の電車はすぐ来る。電車が遅れることで謝る必要があるのだろうか。

そもそも、電車が遅れた理由を聞いていると、「お客様同士のトラブル」とか「ラッシュ時の混雑のため」とか、それって鉄道会社に過失はないんじゃないか、と思うものがある。電車内で痴漢がいて、そいつをしょっぴくために対応していて電車が遅れたのであれば、遅れた原因は、痴漢であって鉄道会社ではない。それなのに謝罪するのは鉄道会社。鉄道会社は、いつから右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出しなさい的なマゾヒスティックな集団になったんだろう。

あと、かなりの頻度でほぼ毎日「電車遅れて申し訳ございません」って聞くと思うのが、「謝らなくていいから改善してほしい」。毎日毎日同じことで同じミスをしている部下や後輩が、謝罪だけは一人前にして、翌日もミスをしていたらどう思うだろう。少なくとも僕はそんな部下や後輩は相手にしたくないと思う。謝って二度と同じミスをしないのがベストで、謝らないけど二度と同じミスをしない、がベター。謝って、同じミスを繰り返す、はワース。謝らなくて同じミスを繰り返すはワースト。

となれば毎日毎日列車の遅延で謝るだけよりは、謝らなくていいから列車遅延がなくなる努力をしてほしい。


とまあ鉄道会社の外部から好き勝手書きました。鉄道会社のやっているいろんな改善の努力とかを棚にあげて自分の個人的な偏見にみちた意見を書きました。なので、上記の文章は公平でないし、客観性もありませんし、僕のストレス発散の一環です。なので、この文章を読んで不快に思う方がいたら、許してほしいと思っています。電車内で本を読むのに集中しかかっているときに、「空調はXXXXとなっております」と言われたときのムカつきを思い出して、そのムカつきだけで書きました。今乗っている車内の空調を聞いて得をするひとがいるのだろうか、空調の設定を聞いたところで車掌さんに「もうちょっと空調弱めにして!」とか言えるわけでもないのに。言ったら言いっぱなしかよ。アフリカで飢餓に苦しんでいる人たちに向かって、食糧事情の状況を説明するだけして肝心の食糧支援はないみたいな状況でしょうか。(このたとえはあっていますか?)


鉄道会社と僕にとってお互い不幸なのは、僕が口を糊するために、毎日少なくとも2回は電車に乗らなければならないことだ。

お互いに声を聞きたくない、顔を見たくない、と思っている2人がいれば、その2人はもうお互い会わないのが、お互いの心の平安を保つために有効だ。だとすれば、僕も電車に乗らなければいい。それはもう誰しもがわかる自明の理。毎日がエブリデイ的な自明の理です。

しかし、僕は電車に乗らなければ会社に行けない。会社に行けないと、お給料がもらえない。お給料がもらえないとごはんを食べることができず死んでしまう。これもまた自明の理。

「電車に乗らなければいい」という行動指針と、「電車に乗らなければならない」という行動指針が矛盾を生み、その狭間で僕は今日もミスチルがイノセントワールドを歌うみたいにして苦しんでいる。
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# by maseda1001 | 2014-09-20 01:38 | Comments(0)

真夏の闖入者

自宅にアリが湧くようになった。何の前触れもなく、アリは大挙して僕の部屋に押し寄せるようになった。僕がコンビニとか弁当屋から調達した食料をイートインするスペースに臆面もなく侵入してくるアリたち。僕の食卓はアリたちに占有された。じわじわと領土を拡大するアリたちに対抗するため、警告がてら群れから逸れたアリを指ではじいてみたり、生暖かい吐息をかけてみたり、ぼんやり眺めてみたりしてみたが効果はなかった。食卓にアリがいる光景。まあたいして実害はないが、食事にアリが入ったりしたら、衛生的にまずいかもしらん。そう思った。

僕は、アリの巣コロリを設置した。ライトグリーンの色をしたマッチ箱サイズの筐体、アリの巣コロリ。

効果はすぐに現れた。アリの巣コロリにはアリを誘引する成分が入っているらしく、設置直後からアリが群をなして「コロリ」に押し寄せる光景を何度か目撃した。休日出勤から戻ってきたとき、日課のランニングに出かける前、風呂に入る前。そのたびに、アリは「コロリ」の中の顆粒に這い寄っていた。群れをなして。隊列を組んで。ある者は自分と同じくらいの体積がありそうな黄色い顆粒をは懸命に巣に持ち帰ろうとがんばっていたし、ある者は仕事を放棄して顆粒にしがみついたままじっと動かない。たぶん、顆粒を食べているんだろう。

「コロリ」はよっぽどおいしいらしい。つかの間、僕の食卓はアリたちの食糧配給所兼食卓になった。

その日の夜、僕は薄い本を一冊読んだ。人の死なないミステリーというサブタイトルがつく、KADOKAWAの本。たぶん、3時間くらいの間、僕はせんべい布団に寝転びながら、莉子さんの真贋鑑定を堪能していた。正直言って、そのころ僕は莉子さんにだいぶ熱をあげていた。可能であれば、可能な限り早く、小笠原になりたいと思ったこともあった。それくらい、僕はそのミステリーを深く耽溺していた。

その日もご多聞にもれず、僕は莉子さんに熱をあげていた。読んでいる間、僕はごはんを食べることを忘れ、寝ることも忘れ、当然のごとく仕事も忘れ、鏡を見れば挨拶をしてくる鼻毛が伸びていることも忘れ、そろそろ近づく燃えるごみの日のことも忘れ、ちょっと美人の女性に食事を誘ったらとりつく島もなく断られたのも忘れ・・・・・・。とにかく、いろんなことを忘れていた。アリと、アリの巣コロリとそれにまつわるエトセトラも当然、忘れていた。そのときの僕に、誰かが、「アリは?」と聞いたら、昔好きだった有田さんのことを思い出すことはあれど、アリのことは思い出さなかったと思う。

僕が、アリと、「コロリ」を思い出したとき、もうすでにアリの宴会は終わっていた。つい何時間か前には謝肉祭よろしく溢れかえるアリたちの饗宴を目撃していたのに、今ではアリたちは姿を消していた。静けさ漂う食卓には、アリがやってくる前までの平和が戻ってきていた。

異様なまでの静けさ。4月の高田馬場駅前ロータリーのようなある種キチガイじみた騒々しい光景が今は昔、僕の食卓は静まり返っていた。漫☆画太郎先生がその状況を描くなら、きっとそのコマには、「死~ん」という擬態語が書かれるに違いない。実際、アリの巣コロリのライトグリーンの透明なマッチ箱くらいの筐体には、量が半分くらいに減った黄色い顆粒と、何匹かの動かなくなったアリがいた。みんな死んでいた。

それ以降、僕の部屋にアリがやって来ることはなくなった。たぶん、巣に戻ったアリたちも死んだのだろう。何匹くらい死んだろう。何十匹か、あるいは何百匹か。せっせとまじめに働いていたアリも、仕事をサボって自分だけ食事にありついていたアリも、巣の中にいたはずの女王アリも、たぶんみんな死んだ。

僕の部屋にはいつもの食卓が戻ってきた。アリが来ることもない食卓。カップラーメンと、コンビニ弁当、オリジン弁当ばかりが置かれる食卓。真夏の闖入者たちに、つかの間の快楽と、その後の死ぬまでの苦しみを与えたライトグリーンの筐体は、今はもうない。
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# by maseda1001 | 2014-07-27 20:51 | Comments(0)

ソーシャルな僕

フェイスブックとかツイッターとかやってる人に対しては思いませんが、ブログ書く人には自意識過剰というか、特に他人が興味を持たないことを必死に表現した挙句、結果何も生まれない、という諸行無常を感じさせる結果になっているケースが多いように思います。(もちろん自分のことは棚にあげるのですが)

芸能人のブログとか閲覧数の多いブログは、やはりそれなりの価値があるのだと思います。閲覧することに何らかの価値を見出す人が多いからこそ、閲覧数は増えるのでしょう。たとえ、しょんべんくさいアイドルが「今日のお昼はたこ焼き食べました☆てへぺろっ」という形式の情報を多方面に発信するというような、一般経済社会の円滑な運営には微塵も影響しない内容であっても、閲覧者がいれば、その情報はやはり価値を持っているのだと思います。アイドルファンが「○○ちゃん、今日はお昼にたこ焼き食べたのか、じゃあ僕も今日はお好み焼きにしちゃお!」みたいな感想を持ったとしたら、その人にとってはやはり本日のお昼のメニューを決定付けるような重大な価値を持った情報をその記事が持っていたことになります。

しかし、閲覧者のないブログは、果たしてどうでしょうか。

ここにこうして今僕が書いている記事が何人の目に留まるのでしょうか。そして、この記事を見た人は何を思うのでしょうか。仮に奇特にもこの記事を閲覧した方がいるとすれば、僕はその人のことを気の毒に思います。ここにはなにもありません。あなたが生きるうえで必要な情報を提供するなんておそれおおいことはまずできないでしょうし、日常会話の話の種にすらなりません。あなたのメリットになることが仮にあるのだとすれば、それはおそらく、自分より収入が低い人がもがき苦しむさまを見て、ひとときの優越感、清涼感、爽快感を提供できること、くらいでしょうか。

卑屈ですね。

卑屈でしょうか。わりと当たっているのではないかと思います。ここは何も繋がらないし、何も進めないし、何も生みません。そんなブログです。

実にロックですね。YAZAWAですよね。

ぜひ、また来てください。
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# by maseda1001 | 2013-12-29 18:48 | Comments(0)

鉄桶にて

最近の地下鉄ってすごいと思うのが、広告の量。昔からまあ大量の広告にまみれていた気もしますが、最近特にすごいと思うのですがいかがでしょうか。主要駅は、電車待ってる間、トンネルの壁にスクリーンがあって、電車を待つ数分の間、ボケーっとその映像を見ることになるわけです。そして、その映像をぼけーと眺めて、次に電車に乗ると、中吊り広告の玉手箱やーとヒコマロさんがおっしゃってくれそうな色とりどりの広告。エステやら英会話やら不動産やら金貸しやらゴシップやら。さらには、たいていの列車には映像形式のCMが流れていますね。

最近のお気に入りは桐谷美玲さんが、美容のクイズに答えるやつ。あれ、好きです。桐谷さんだから好きというのもありますが(99%それですが)、好きです。3ヶ月くらいずっと見ていて、桐谷さんは毎回クイズに正解しているものだと思ったら、つい最近放映されているパターンだと桐谷さんが珍しく間違えている回でした。正解すると、桐谷さんが「やっぱりね!」とかわいく微笑む映像が流れるのですが、不正解の場合は、「そうなんだ。」とやや残念そうな、それでいて新たな事実に興味を持って新鮮に感動したという微笑みを見せてくれます。

どっちもかわいい。

公共の場で、強制的に、好きとか嫌いとかを問わずに、大量の広告を目に入れさせられるのならば、僕は世の中のCMすべてに、桐谷美玲さんが出演してほしいと思います。でも、川平さんのヘパリーゼと、フリスクの部長に怒られてる人と、ソルマックのCMは好きなので、それは許可します。不許可にしても、どうせ明日以降も僕の許可の有無を問わず、広告物は有象無象に大量生産されるのだろうけれど、僕はそれ以外は許可しません。

ナカイマ知事は県民の総意を自身の判断で示す困難さに立ち向かいました。僕は、自分の意思を僕の個人的なスペースで表明する安易さに逃げました。後世の人はどちらを評価するか、今から楽しみです。
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# by maseda1001 | 2013-12-29 18:28 | Comments(0)

ここ数年、毎年思うんですが

ご飯を食べるというのは大変なことですね。

騙し、騙され、すかし、すかされ、とまでは言いませんが、自分の存在が道端の骨片と思えて当然のような無力感を思い知るのは週に1回くらいあります。それくらいあって当然だよ、と思えるひとは大変すばらしい性格の持ち主だと思いますし、ぜひ見習いたいです。しかし、私は30年くらい生きてきてわかった気がするのですが、どうやらあまりそれ系の性向を持っていないのかもしれません。自己の能力や性向なんて、わかった気になっているだけ、というパターンも往々にしてあるとは聞きますが、当たらずとも遠からずくらいには当たってると思います。

「挫折」というと暗い言葉であって、滅多やたらに口にするものではない、という意見を聞きました。一理あると思います。「暗い言葉は暗い思考を生み出し、それは暗い人生を導く」、なんて、場末のパブで、くっさい化粧をした棺桶に片足突っ込んだ美人のママがよく言ってそうな言葉です。そして、そのパブにいたら、神妙な顔して聞いてしまうであろう、おれ。

しかし、まあ挫折とか失敗を経験すること自体は悪いことではないとも聞きます。負けたことが成長の糧になる、とか秋田県のバスケ部の髭の監督あたりが言いそうなセリフですが、そういうセリフを顧問の監督に言われたら神妙な顔で聞いてしまうであろう、おれ。

20代前半までは絵にかいたようなエリート街道を歩んでいたような気がしますが、いまは昔。いまは、ただひたすら世間にそっぽを向かれないようになんとか軌道修正を試みています。

ああ、いつからだろう。
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# by maseda1001 | 2013-12-28 00:03 | Comments(0)