背伸びせず、卑屈にもならず。そんな風に書きたひと思ふをとこありけり。
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20代

20代、20才~30才くらいまでで、僕が自分自身を褒め称えたい、成長した、と自画自賛したいことがひとつある。

会社のみんなと山に登っていて、山頂間近でぎっくり腰になり、ひとりで泣く泣くロープウェイで下山したこともあった(ロープウェイがあってよかった!)。美人の女性と食事をした際に酔っ払った挙句に鼻毛の話を得意げに語ってしまい、その後連絡がつかなくなったこともあった。新宿でボッタクリにあったこともあって一晩で10万円くらいなくなったこともあった。

それらのある種心の琴線をくすぐるエピソードもあったけど、やっぱり20代のハイライトといえばあれですね。自分の限界を知ったこと。これですね。

自分は何でもできるスーパーマンではない。一般人だということがわかった。

何を当たり前のことを言っているんだろうと思われるだろうけど、これは僕にとってはノルマンディーや関が原くらいの天変動地の大イベントです。

僕は、高校時代のがり勉が実を結び、大学受験でわりと自分の希望通りになった側なのですが、これが悪いほうに作用すると、自分の学歴を鼻にかけて、そのくせ仕事はできないという、いわゆる典型的、類型的「東大くん」に陥る人がいます。大学受験時の成功体験を唯一のプライドの糧にして一生を生き抜く、ある種ウブな人種です。こういう人は、プライドは高いくせに仕事はできず、彼女もできず、口臭もひどくて、オリジン弁当では「特のり弁当」しか買わない傾向が強い。

僕は自分のことをわりとそのある種ウブな人種、「東大くん」タイプの人間であったように思います(東大ではないので尚のことたちが悪いですが)。自分は時間的な余裕さえあれば、弁護士にだってなれるし、医者にだってなれるし、内閣総理大臣にもなれるかもしれないし、中東かアフリカあたりで革命の指導者にでもなれるかもしれない。そんな風にわりと本気で思っていた時期がありました。

その根拠はたった一回、大学受験で成功したという根拠しかないことに気づいたのはつい数年前。大学を卒業してから4、5年くらい経ってからでした。いやー、そのときは泣いたね。自分は思ったより能力がない、何にでもなれるわけでもないし、青山の土地を買うこともできないってわかったときは、泣いた。涙は流さずとも、心で泣いた。深夜の国道○○号線を愛車で走りながら、尾崎豊の「僕が僕であるために」をBGMにして心で泣いた。

僕はなにもできない。

そう自覚させてくれたのは、当時は鬼のように思えた上司だったり、優秀な同期だったり、明朗快活を絵に書いたような後輩だったり、発注者だからと不遜な態度を取っていたはるかに年下の僕に対してもおだやかに対応してくれた取引先の社員さんだったり。

まあ、「僕はなにもできない」ってのは少し大仰で、運転免許試験場の筆記テストで1回落ちた数日後にリベンジしたし、エクセルのショートカット機能のうち「ctrl+c」を使いこなせるし、水商売のお姉さんからは同伴のお誘いが来るくらい必要とされている。

そして、いまでは、僕はなににもなれないわけではないと思っている。もちろん、内閣総理大臣や革命の指導者になるのはたぶん相当無理。ハンカチ王子がこれから200勝するよりも難しい。

でも、適切な目標を設定して、適切な時間を確保して、あとは継続する能力と、運が味方してくれれば、目標を達成することは不可能ではない。そう思うようになった。そう思えるようになった。これは自分で言うのもなんだけど、けっこうな進歩なんじゃないかと思う。

人類が月に到達することが進歩ならば、僕がこうして書けるようになったことも立派な進歩だと思う。けっこう本気で。

だからだろうか。僕はいま、結構将来が楽しみだ。牢屋から出たときのホリエモンもこんな気持ちだったのかな。

叩けば割れるような根拠薄弱なプライドだけで目標もなく、努力もしなかった頃の自分はもういない。そういう意味で僕は自分を成長したと自画自賛したい。
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# by maseda1001 | 2014-12-23 22:35 | Comments(0)

ZAN・NYO・KAN

残尿感である。

セリーグでジャイアンツが優勝しようが、テレビでは相変わらずタレントがおいしそうなものを食べていようが、消費増税による景気の足踏みがあろうが、そんなものは知ったことではない。

残尿感である。

僕は、自慢じゃないけど、残尿感を語るような年齢ではない。おむつを履くような年齢でもないし、過去において尿道に疾患を負ったこともない。それでいて、なぜか、ふと急に僕を襲う残尿感。

最近、そのZAN・NYO・KANが特にひどい。ひどいというか、漏れる。トイレの小便器前からモノをしまってブースアウトしようとする刹那、僕を襲うZAN・NYO・KAN。

「おっしこをする→モノをしまう→ブースアウトする→少し、ちびる→トランクス、もしくはボクサーパンツが少し湿る」

これが様式美のごとく、毎回の小便のたびに僕を襲う。こんなことではいけない、と毎回ちびった後に思う。思うんだけれども、やめられない。万引きをやめられない主婦のごとく僕の膀胱は小便を漏らすことをやめることができない。

これから何十年生きるのかわからんけども、どうする、おれ?
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# by maseda1001 | 2014-09-26 23:59 | Comments(0)

電車のアナウンスについて思うこと

地下鉄に乗っていて最近よく思うんですが、車掌がよくしゃべる。とにかくよくしゃべる。

「次は◎◎駅です」や、「はい、ドア閉まります。ドア閉まっております」とかに始まり、「朝ラッシュ混雑により電車遅れて申し訳ございません」とか謝罪をしたり、ときには「本日もお疲れ様でした」とかねぎらいをかけてくるどこぞの貞淑な奥様かと思うようなアナウンスをする車掌までいる。

いろいろな意見があると思うし、あっていいと思うんですが、僕はこのアナウンスがあまり好きではない。好きではないというか、はっきり言って嫌いだ。聞いていてムカムカしてくる。胸がムカムカして張り裂けそうになる。あまりの胸のムカつきっぷりに、僕の胸がEカップくらいになっても不思議ではないくらい、ムカムカする。

なぜ僕は車掌さんのアナウンスが嫌いなのか。

まず第一に、罪のない人に対する説教がいやだ。それも毎日。「駆け込み乗車は危険ですからおやめください」というアナウンスは、駆け込み乗車をしたその人だけに言えばいいことであって、駆け込み乗車をせずに、ちゃんと整列して電車に乗った残りの大多数の人にまで言う必要があるだろうか。

遠足の前日、小学校の先生が「お菓子は100円までです。これはルールです。みんな守りましょう。正直者がバカを見るなんてことがないように。」と言っていたことを思い出します。駆け込み乗車をした人が遠足に200円分のお菓子を買ってきた子供で、残りの大多数は先生の言いつけを守って100円分しかお菓子を買わなかった子供だ。本当は、みんなもっとお菓子を持ってきたかった。「うまい棒のお好み焼き味とかチーズ味とかラムレーズン味とかもっと色んなバラエティを楽しみたかった!」という欲求を我慢した健気な子供たちが大半だ。しかし、たったひとり先生の言いつけを破る子供がいると、先生は激怒する。みんなに向かって激怒する。「100円分しか持ってきちゃだめだって言ったでしょ!」と激怒する。そして楽しいはずの遠足は、たったひとりのルール違反のせいでお通夜みたいになってしまう。

なぜルールを守っている人に、毎日毎日同じことを繰り返し言うのか。それがいやだ。

ただまあ、今日はルールを守っていても、明日はわが身で、駆け込み乗車をする側になっている可能性もゼロではない。抑止力という意味もあるのでまあこれは仕方ないかなと許容できると思います。

ただ、2つ目に、思うのが、毎日毎日車掌が謝りすぎる。これもいやだ。本当にいや。電車が遅れて申し訳ございませんと謝る車掌さん。本心から申し訳なさそうな迫真の演技力を見せる車掌さんもいれば、わりと感情のこもっていない車掌さんもいたりして。でも、なぜ車掌さんが謝らなければならないんだろう。

電車が数分遅れたところで、都心の地下鉄だったら、次の電車はまた数分内に来る。それなのに、今乗っている電車が遅れたから謝るというのはどうだろう。1時間に1本しかない電車が20分、30分遅れてきたら、ムッとなって、なんで遅れたか理由を知りたくもなるかもしれない。でも、都会の地下鉄で、特定の列車が一本遅れたからといって、次の電車はすぐ来る。電車が遅れることで謝る必要があるのだろうか。

そもそも、電車が遅れた理由を聞いていると、「お客様同士のトラブル」とか「ラッシュ時の混雑のため」とか、それって鉄道会社に過失はないんじゃないか、と思うものがある。電車内で痴漢がいて、そいつをしょっぴくために対応していて電車が遅れたのであれば、遅れた原因は、痴漢であって鉄道会社ではない。それなのに謝罪するのは鉄道会社。鉄道会社は、いつから右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出しなさい的なマゾヒスティックな集団になったんだろう。

あと、かなりの頻度でほぼ毎日「電車遅れて申し訳ございません」って聞くと思うのが、「謝らなくていいから改善してほしい」。毎日毎日同じことで同じミスをしている部下や後輩が、謝罪だけは一人前にして、翌日もミスをしていたらどう思うだろう。少なくとも僕はそんな部下や後輩は相手にしたくないと思う。謝って二度と同じミスをしないのがベストで、謝らないけど二度と同じミスをしない、がベター。謝って、同じミスを繰り返す、はワース。謝らなくて同じミスを繰り返すはワースト。

となれば毎日毎日列車の遅延で謝るだけよりは、謝らなくていいから列車遅延がなくなる努力をしてほしい。


とまあ鉄道会社の外部から好き勝手書きました。鉄道会社のやっているいろんな改善の努力とかを棚にあげて自分の個人的な偏見にみちた意見を書きました。なので、上記の文章は公平でないし、客観性もありませんし、僕のストレス発散の一環です。なので、この文章を読んで不快に思う方がいたら、許してほしいと思っています。電車内で本を読むのに集中しかかっているときに、「空調はXXXXとなっております」と言われたときのムカつきを思い出して、そのムカつきだけで書きました。今乗っている車内の空調を聞いて得をするひとがいるのだろうか、空調の設定を聞いたところで車掌さんに「もうちょっと空調弱めにして!」とか言えるわけでもないのに。言ったら言いっぱなしかよ。アフリカで飢餓に苦しんでいる人たちに向かって、食糧事情の状況を説明するだけして肝心の食糧支援はないみたいな状況でしょうか。(このたとえはあっていますか?)


鉄道会社と僕にとってお互い不幸なのは、僕が口を糊するために、毎日少なくとも2回は電車に乗らなければならないことだ。

お互いに声を聞きたくない、顔を見たくない、と思っている2人がいれば、その2人はもうお互い会わないのが、お互いの心の平安を保つために有効だ。だとすれば、僕も電車に乗らなければいい。それはもう誰しもがわかる自明の理。毎日がエブリデイ的な自明の理です。

しかし、僕は電車に乗らなければ会社に行けない。会社に行けないと、お給料がもらえない。お給料がもらえないとごはんを食べることができず死んでしまう。これもまた自明の理。

「電車に乗らなければいい」という行動指針と、「電車に乗らなければならない」という行動指針が矛盾を生み、その狭間で僕は今日もミスチルがイノセントワールドを歌うみたいにして苦しんでいる。
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# by maseda1001 | 2014-09-20 01:38 | Comments(0)

真夏の闖入者

自宅にアリが湧くようになった。何の前触れもなく、アリは大挙して僕の部屋に押し寄せるようになった。僕がコンビニとか弁当屋から調達した食料をイートインするスペースに臆面もなく侵入してくるアリたち。僕の食卓はアリたちに占有された。じわじわと領土を拡大するアリたちに対抗するため、警告がてら群れから逸れたアリを指ではじいてみたり、生暖かい吐息をかけてみたり、ぼんやり眺めてみたりしてみたが効果はなかった。食卓にアリがいる光景。まあたいして実害はないが、食事にアリが入ったりしたら、衛生的にまずいかもしらん。そう思った。

僕は、アリの巣コロリを設置した。ライトグリーンの色をしたマッチ箱サイズの筐体、アリの巣コロリ。

効果はすぐに現れた。アリの巣コロリにはアリを誘引する成分が入っているらしく、設置直後からアリが群をなして「コロリ」に押し寄せる光景を何度か目撃した。休日出勤から戻ってきたとき、日課のランニングに出かける前、風呂に入る前。そのたびに、アリは「コロリ」の中の顆粒に這い寄っていた。群れをなして。隊列を組んで。ある者は自分と同じくらいの体積がありそうな黄色い顆粒をは懸命に巣に持ち帰ろうとがんばっていたし、ある者は仕事を放棄して顆粒にしがみついたままじっと動かない。たぶん、顆粒を食べているんだろう。

「コロリ」はよっぽどおいしいらしい。つかの間、僕の食卓はアリたちの食糧配給所兼食卓になった。

その日の夜、僕は薄い本を一冊読んだ。人の死なないミステリーというサブタイトルがつく、KADOKAWAの本。たぶん、3時間くらいの間、僕はせんべい布団に寝転びながら、莉子さんの真贋鑑定を堪能していた。正直言って、そのころ僕は莉子さんにだいぶ熱をあげていた。可能であれば、可能な限り早く、小笠原になりたいと思ったこともあった。それくらい、僕はそのミステリーを深く耽溺していた。

その日もご多聞にもれず、僕は莉子さんに熱をあげていた。読んでいる間、僕はごはんを食べることを忘れ、寝ることも忘れ、当然のごとく仕事も忘れ、鏡を見れば挨拶をしてくる鼻毛が伸びていることも忘れ、そろそろ近づく燃えるごみの日のことも忘れ、ちょっと美人の女性に食事を誘ったらとりつく島もなく断られたのも忘れ・・・・・・。とにかく、いろんなことを忘れていた。アリと、アリの巣コロリとそれにまつわるエトセトラも当然、忘れていた。そのときの僕に、誰かが、「アリは?」と聞いたら、昔好きだった有田さんのことを思い出すことはあれど、アリのことは思い出さなかったと思う。

僕が、アリと、「コロリ」を思い出したとき、もうすでにアリの宴会は終わっていた。つい何時間か前には謝肉祭よろしく溢れかえるアリたちの饗宴を目撃していたのに、今ではアリたちは姿を消していた。静けさ漂う食卓には、アリがやってくる前までの平和が戻ってきていた。

異様なまでの静けさ。4月の高田馬場駅前ロータリーのようなある種キチガイじみた騒々しい光景が今は昔、僕の食卓は静まり返っていた。漫☆画太郎先生がその状況を描くなら、きっとそのコマには、「死~ん」という擬態語が書かれるに違いない。実際、アリの巣コロリのライトグリーンの透明なマッチ箱くらいの筐体には、量が半分くらいに減った黄色い顆粒と、何匹かの動かなくなったアリがいた。みんな死んでいた。

それ以降、僕の部屋にアリがやって来ることはなくなった。たぶん、巣に戻ったアリたちも死んだのだろう。何匹くらい死んだろう。何十匹か、あるいは何百匹か。せっせとまじめに働いていたアリも、仕事をサボって自分だけ食事にありついていたアリも、巣の中にいたはずの女王アリも、たぶんみんな死んだ。

僕の部屋にはいつもの食卓が戻ってきた。アリが来ることもない食卓。カップラーメンと、コンビニ弁当、オリジン弁当ばかりが置かれる食卓。真夏の闖入者たちに、つかの間の快楽と、その後の死ぬまでの苦しみを与えたライトグリーンの筐体は、今はもうない。
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# by maseda1001 | 2014-07-27 20:51 | Comments(0)

ソーシャルな僕

フェイスブックとかツイッターとかやってる人に対しては思いませんが、ブログ書く人には自意識過剰というか、特に他人が興味を持たないことを必死に表現した挙句、結果何も生まれない、という諸行無常を感じさせる結果になっているケースが多いように思います。(もちろん自分のことは棚にあげるのですが)

芸能人のブログとか閲覧数の多いブログは、やはりそれなりの価値があるのだと思います。閲覧することに何らかの価値を見出す人が多いからこそ、閲覧数は増えるのでしょう。たとえ、しょんべんくさいアイドルが「今日のお昼はたこ焼き食べました☆てへぺろっ」という形式の情報を多方面に発信するというような、一般経済社会の円滑な運営には微塵も影響しない内容であっても、閲覧者がいれば、その情報はやはり価値を持っているのだと思います。アイドルファンが「○○ちゃん、今日はお昼にたこ焼き食べたのか、じゃあ僕も今日はお好み焼きにしちゃお!」みたいな感想を持ったとしたら、その人にとってはやはり本日のお昼のメニューを決定付けるような重大な価値を持った情報をその記事が持っていたことになります。

しかし、閲覧者のないブログは、果たしてどうでしょうか。

ここにこうして今僕が書いている記事が何人の目に留まるのでしょうか。そして、この記事を見た人は何を思うのでしょうか。仮に奇特にもこの記事を閲覧した方がいるとすれば、僕はその人のことを気の毒に思います。ここにはなにもありません。あなたが生きるうえで必要な情報を提供するなんておそれおおいことはまずできないでしょうし、日常会話の話の種にすらなりません。あなたのメリットになることが仮にあるのだとすれば、それはおそらく、自分より収入が低い人がもがき苦しむさまを見て、ひとときの優越感、清涼感、爽快感を提供できること、くらいでしょうか。

卑屈ですね。

卑屈でしょうか。わりと当たっているのではないかと思います。ここは何も繋がらないし、何も進めないし、何も生みません。そんなブログです。

実にロックですね。YAZAWAですよね。

ぜひ、また来てください。
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# by maseda1001 | 2013-12-29 18:48 | Comments(0)